Ecode : /oyamamura/oyamamura.html      UPdate:201906.30 Fujino
     小山の歴史    
     
     
               

 下の絵は現在の町田市小山が丘にあるホームセンター辺りから相模原方面を眺めた江戸時代の想像図です。
 境川を挟んで両側に小山村が在り、川から手前は武蔵の国、向こう側が相模の国でした。
 江戸時代以前は川の両側が一つの小山村でしたが文禄3年(1594年)の太閤検地のあと村は川を境に分かれました。
 その時までは川の名前は田倉川とか高座川(たかくら)と呼ばれていたそうですが国の境となることもあって境川
となったそうです。
 二つに分かれた小山村は、相模国側は現在の栃木県を領していた烏山藩の領地となり、武蔵国側は徳川幕府の天領
となり、しかも3合といって、上郷、中郷、下郷の三分割となりそれぞれに領主が居ました。

 当時相模の国側の小山村のことを武蔵の国の村人は日中の日当たり時間の差から「日陰小山」と称し、武蔵の国側を
「日向小山」と言っていたそうです。ですが、日向小山側はすぐ後ろに小高い山が迫っていましたから農耕の土地が少
なかったようで、みんな川を越えて相模の国側の荒れ地を開墾し、少しずつ耕地を増やしていったそうですから、言っ
て見れば「日向は日陰のおかげで生活できた」というわけです。
 因みに現在の町田市側の小山とか相原などは明治になってからは再び神奈川県に属していましたが、明治26年
(1893年)には東京府(当時)に移管されました。

 ともあれ、そういう経緯でしたので、小山村の昔の話となると一つだった頃の小山村から始めないとどうも中途半端と
いいますか、根無し草のような話になってしまいます。
 そういうわけで、ここでは相模と武蔵の領地とか、現在は神奈川県と東京都になりますが、境目のことは横に置いて、
小山村に伝わる様々な話を思いつくままに述べてみることにします。
 このシリーズが終わるころには記念すべき場所を巡るウオーキング・マップも作成する予定です。


              

主な参考文献  「玉利軒日記」 小山まほろば会      
  「玉利軒日記 記録帳」 同上       
  「わたしたちの相模原」 相模原市教育委員会       
   私たちの小山 小山地域資料編纂委員会      
  「町田歴史人物事典」 小島資料館       
  「川崎史話」 小塚光治著       
  「相武歴史研究会」資料       
その他の情報   町田市小山在住 内田征一氏(小山まほろば会 代表)からのヒアリング            

  はじめに 
 
 私が相模原の現在地(中央区宮下本町1丁目)へ転居したのが38年前の昭和56年(1981年)でしたが、その数年後に内田氏にお会いした。
 この地域の歴史に大変詳しい方でこれまでにも数えきれないほど数々の話しを伺っている。歴史はもともと好きでしたのでお陰で自分が住むことになったこの界隈の昔からの話がたくさん溜り、もったいないから何とかして記録しようと初めて、もう20年になる。
 中にはものの弾みのように書いてしまった本もある。町田街道の三つ目交差点近くに現在でも島崎姓の家が約70軒ほどあるが、江戸時代に嶋崎周助という人が居て、その家の養子となって天然理心流宗家4代目となった近藤勇が居たことも分かったりで、ますます興味深くなった。
 更に古くは鎌倉時代に、ここには武蔵七党でも有名な一族の小山太郎有高という武将が居て、その山城跡が小山が丘の一角に残っていたりする。まだまだ沢山ある・・・
 先日久しぶりに小山城址を訪ねて驚いたのですが当時の小高かった丘も無くなり一面に造成工事が進行していて無論「小山城址」の柱表示も無くなっていました。残念なことです。

           令和元年5月27日 小山地区自治会連合会広報部主幹 藤野英樹
     
 
 目次         
 1 相模野台地 相模原台地は数十万年前以降に形成された台地  
 2. 氷川神社  徳川幕府最後の開墾地となった清兵衛新田の鎮守 
 3. 天縛皇神社  室町時代以降の小山村の鎮守 
 4. 江戸街道碑  江戸時代各所にあった道標 
5. 横浜街道(絹街道)と石灯籠 現在の町田街道は八王子と横浜を結ぶ絹街道だった 
6. 長屋門跡 町田市に5箇所しか残っていない長屋門だった 
7. 六地蔵  子育て地蔵とも呼ばれ、いつも献花が絶えない
         
         
         
         
        
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